2015年7月30日木曜日

ビシュケクでのウズベキスタン、タジキスタンビザ申請(2015月7月17日)

キルギスタンの首都ビシュケクに到着し、
これから向かうタジキスタン、ウズベキスタン、イラン、トルクメニスタンのビザ取得耐久戦が始まる。
タジキスタン以外はなかなかの曲者らしく、ネット情報によるとウズベキスタンビザ取得が1〜3週間。
イランの場合、旅行会社からのインビテーション•レター取得後にビザ申請となり、
果たして何日待てばインビテーション•レターが取れるのかまったく不明。
10年前は日本大使館から推薦状のようなレターを出してもらえれば、
イスタンブールで10日間、アンカラでは1日で取得出来たのに
2015年現在面倒すぎるイランビザの手続きとなりそうだ。

カシュガルからキルギスタンに入国し、
7000m級の山々が連なるサリータシュで1泊、キルギスタン第二の街のオシュで2泊してからビシュケクへ。
当初はカザフスタンビザ免除プログラムの期間が2015年7月15日までだったが、
2017年の12月31日まで延長されたと知り、
ビザなしで旅行出来るカザフスタンに急いで入国する必要はなくなった。
まずはビシュケクでじっくりと中央アジア諸国のビザ申請手続きをしようと思う。


7月9日木曜日。
オシュから理不尽なほど時間がかかるシェアタクシーで14時間かけてビシュケクに23時頃到着。
シェアタクシーに乗る際に電話予約しておいたサクラ•ゲストハウスにしばらく滞在する。
日本人旅行者が多いと予想していたが、実際は年配の方3人だけで、
残りは西洋人、イスラエル人30人くらいが日ごと入れ替わっている。
部屋は明るくていいものの、キッチンは狭く、中庭の3つの憩いのテーブルは西洋人旅行者で常時混み合っている。
値段も手元の最新ガイドブックの料金から値上げされ、ドミトリーで550ソム(1100円)と安くない。
真面目に働く若い女性スタッフ4人の感じがいいのに料金がネックになる。



それでも、先立ってウズベキスタンビザを申請されている神戸出身のマコトさんや
他にも会話していて面白い韓国人や日本人旅行者と出会い、ずるずるとサクラ•ゲストハウスに滞在する。
ちなみにマコトさんと訪問した日本人宿、南旅館は9人宿泊しており満室。
別館にも泊まっている人がいるそうなので、
ウズベキスタン大使館、イラン大使館に近いサクラ•ゲストハウスでビザ手続きが一段落してから移ろうかと検討中。
ビシュケク市街から遠い南旅館に移る前に今年できたばかりというもう一軒の日本人宿ドス•ゲストハウスもサクラ•ゲストハウスに近く、
料金もドミトリー400ソム(800円)とお手頃なので移る価値がありそう。


7月10日金曜日。
タイミング悪く週末直前にビシュケクに着いたので、翌日起きて早々スタッフのお姉さんにウズベキスタンビザ申請の電話予約をしてもらう。
これまで多くの国々でビザ申請手続きをしてきたが、ビザ申請や受け取りに電話でアポイントメントを取るのはウズベキスタンが初めて。
ウズベキスタン大使館の電話窓口では英語が通じるようで自ら電話をかける人が多い。
自分の場合は念のために現地語を話せるお姉さんに頼み、金曜日の10時過ぎにかけてもらった。
大使館は土日月休みで申請日は7月14日火曜日。
いきなり申請するのに4日待ちとなるも、もともと長居を覚悟しているビシュケクで気長に構える。
ウズベキスタンビザはちょっと面倒なことに専用のウェブサイトで必要事項入力済みの申請書をダウンロードしなければならず、
土日月の3日間のうち気ままにパソコンで申請書を作成し、近くのプリント屋にパソコンを持っていって印刷してもらう。
実際にウズベキスタン大使館も訪問してビザ申請に提出必要なものを確認しておく。

•パスポート
•ウェブサイト(http://evisa.mfa.uz)で作成してプリントアウトした申請書
•パスポートのメインページとキルギスタン入国スタンプページのコピー
•3×4cmの写真



同時に何よりも見通しがつかないイランビザ取得のため
ガイドブックに載っているペルシア•エージェンシーでインビテーションレターを申し込む。
インビテーションレター発行料として30ドル払うも受け取りまでかかる日数の見通しがつかず。
感じの悪くないペルシア•エージェンシーの女性もいつ頃取れるかまったく分からないとのことだった。




ビシュケクに3週間滞在するのか、4週間滞在するのか、すべてイランビザに必要なインビテーションレター次第となりそう。


正直言って観光名所やみどころ皆無のビシュケク。
ソビエト風の建築物が並ぶビシュケクは長期滞在する街として物足りない。
でも緑が多くて明るく、治安も良好そうであり、
しばらく旅の羽根を休めるのに悪くない空気が漂っている。




週末はオシュで知り合った日本人女性とアルゼンチン人のカップルとビシュケク北の郊外にあるドルドイ•バザールを訪れる。
中央アジア最大規模と言われるだけあって広大で、コンテナが並べられている市場は圧巻。
インドに4ヶ月滞在してキルギスタンにやってきたサチコさん、
中央アジアやアフガニスタンを旅しているアルゼンチン人のマウリシオは靴やサングラスを物色している。
ドルドイ•バザールに到着する時間が遅く、17時頃からすでに店じまいしていた。




市街に戻ってからサチコさん、マウリシオと洒落たコーヒーショップで久しぶりに旨いコーヒーを飲んだりした。





7月14日火曜日。
ようやくビザ申請手続きが動き出す。
まだイランのインビテーションレターの申し込みしかしていないのにすでにビシュケク6日目。
朝10時のウズベキスタンビザ申請アポイントメント時刻に遅れないように早めにサクラ•ゲストハウスを出て大使館に歩いていく。
徒歩で20分かからない距離感がいい。
ウズベキスタンビザの申請自体は楽だった。
10時ちょうどに点呼があり、大使館前に並ぶ10数人が名前を呼ばれた順番に建物に入っていく。
名前を呼び上げる女性も窓口の女性も同じ綺麗な方で、
フレンドリーとはいえないが無愛想ではなかった。
携帯番号だけ聞かれ、3日後の金曜に電話して確認するように言われた。

※7月17日金曜日にウェブサイト(http://evisa.mfa.uz)でビザ•ステイタスをチェックしたところ、
テレックス•ナンバー、発行された日が表示されており、
実際に大使館に午後4時過ぎに電話すると、7月21日火曜日の10時に受け取れるとのこと。
申請日からちょうど7日間で無事ウズベキスタンビザ取得となる。

ウズベキスタン大使館の前で偶然の再会があった。
南旅館に泊まっているという2人の旅行者と会ったのだが、
1人はどこかで見た記憶がある。
まさかと思い名前を聞いてみると、
7年前の2008年にエジプトのアスワンで会い、一緒にスーダンを縦断し、
エチオピアまで旅行したケンジさんだった。
ケンジさんはエチオピアで別れてからゆっくりとアフリカを南下し、南米に渡り、
中米のニカラグアでタクシー強盗に遭って長旅が終わったとのこと。
自分はアフリカの後ヨーロッパ、南米、アラビア半島、インド亜大陸、アジアを廻って帰国し、
それ以来ケンジさんと連絡をとりあっていたなかったのに7年ぶりにまさかのビシュケクのウズベキスタン大使館前で再会出来るとは驚きだった。
これほど月日が離れての旅行者との偶然の再会はなく、また当時と変わらないお互いに笑ってしまった。

この日はウズベキスタンビザ申請手続きだけのつもりだったが、
ケンジさんと一緒に来ている日本人男性にタジキスタン大使館は午後5時まで開いていると教えてもらい、
ついでにタジキスタンのビザも申請に行く。
タジキスタン大使館はかなり遠いものの午後5時までまだまだあるので炎天下歩く。



ちなみにビシュケクに長居する旅行者にとってBUS.kgというアプリの使い勝手がいい。
街中をくまなく走るマルシュルートカ、トロリーバスの路線図がチェックでき、
ロシア語が読めなくても助けられる。
BUS.kgだと17番のトロリーバス、193や226のマルシュルートカでタジキスタン大使館近くまで行ける。


タジキスタン大使館は住宅街にある。
40度近い炎天下、ウズベキスタン大使館から歩いて正午近くに到着した。


警備員に軽く会釈をし、大使館のドアベルを鳴らすとゲートが開く。
強烈の日差しのためゲートの取っ手が熱くなっていた。
大使館の建物には誰もいなく、窓口から申請書となぜか自分で記入する推薦状を記入するだけ。
前職場の住所や電話番号を記入し、滞在期間を8月7日から8月30にちまでの24日間として申請すると、
なぜか勝手に30日間に上書きされる。
申請料金75ドルと100ソムを払うと、午後3時に取りに来いと言われた。
パミール•パーミットについても尋ねられたので当然お願いしておく。
必要なものは以下の通りだった。

•パスポート
•窓口でもらえる申請書と推薦状
•パスポートのメインページとキルギスタン入国スタンプページのコピー
•3×4cmの写真
•申請料金75ドル+100ソム(パミール•パーミット無料)

尚、ビザ取得後に他の旅行者に教えてもらったのだが、
自分から後日取りに行く旨を伝えると、申請料金55ドルで4日営業日待ちとなるらしい。

タジキスタン大使館からそう遠くないオルトサイ•バザールで時間をつぶし、
午後3時に戻り、いとも簡単にタジキスタンビザ取得。
入国日8月7日から出国日9月6日まで30日間有効。
パミール•パーミットも同期間発行された。
わずか3時間で取得できたタジキスタンビザには拍子抜けだった。

イランのインビテーションレターが届くのはまったく不明なので週末はイシククル湖への夏のバケーションに行く。




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2015年7月26日日曜日

中国最西端のカシュガルからキルギスタンへ(2015年7月7日)

モンゴルから中国に戻り、10日間で東西横断して中央アジアへ向かう。

今回の中国の旅の最後の町はカシュガル。
中国最西端にある町でウイグル族が6割以上を占めておりエキゾチックな雰囲気が漂っている。
旧市街の路地を歩いているとシリアやモロッコの迷宮のような旧市街に彷徨い込んだ気分になる。




カメラをぶら下げて路地をぶらついていると、元気な子供達が近づいてくる。
中国で子供が寄ってくることはなかったので新鮮である。
ウイグル族の子供達にこれから向かうイスラム圏の中央アジアへの期待感が湧く。




日が暮れてからモスク近くの広場を埋める屋台街にマラケシュのジャマ•エル•フナ広場を思い出す。
まだ中国にいるという事実が信じられなくなってくる。
屋台街では羊肉とジャガイモのスープに米粉を入れたものや目の前で焼いてくれる串肉を食べる。







カシュガルからキルギスタンのオシュへ月曜と木曜の週2便、国際バスが運行されており、
月曜のバスに乗る日と中国のビザなし滞在15日目が重なるようにモンゴルを出国日を設定しておいた。
1日滞在日数オーバーするごとに600元(12000円)も罰金がとられるので、
満席でバスに乗れなくなることがないようカシュガルに着いた翌日にチケットを買いにいった。
数日後にまったくもって無意味な心配と分かるのだが。

いきなりの難関として街の北側にある国際バスステーションが移転されており、
すでに閉鎖された旧国際バスステーション近くのホテルで尋ねると、
どこからかおじさんが現れ、車で連れて行ってくれることになった。
もちろんただではなく、30元なので高いが情報料として妥協する。
おじさんは街中から新しい国際バスステーションまで遠いとジェスチャーで伝えてくる。
実際にカシュガル市街から遠く、新しく建設中の広州ニューシティーという郊外にあった。
広州ニューシティーはどちらかというと建設が中断したようなゴーストタウンである。
モダンだけど閑散としている新しい国際バスステーションの窓口で聞いてみると、
月曜と木曜にキルギスタンのオシュ行きのバスが運行予定となっているものの、
前日にならないと出発確定とはならないので日曜日にチケットを買いに来いと言われる。
仕方がなく3日間カシュガルでのんびり過ごし、
日曜の午前中に今度は旧市街ちかくの西域広場から市バス4番で広州ニューシティーのバスステーションに出直す。
当たり前のようにバスチケットを取得できると思って窓口に向かうと、
なんとバスは故障中で木曜日まで待たなければ分からないらしい。
国際バスでカシュガルからキルギスタンに行く方法はなくなってしまう。

どうすべきか困惑しながら旧市街のオールドタウン•ユースホステルに戻る。
そこで同じくバスステーションにて故障中でバスが運行しないと言われたフランス人カップルと出会った。
彼らは旅行会社に問い合わせ、中国側のイミグレがあるWuqia(ウチャ)までのタクシーを手配したと言う。
タクシー1台で200元(4000円)。
フランス人カップルからの嬉しい誘いにより、有り難くウチャまでのタクシーに便乗させてもらう。
もともと570元(11400円)もするカシュガル〜オシュの国際バスに乗るつもりだったので、
1人67元は安く感じられる。


7月6日月曜日。
中国最後の街カシュガルからキルギスタンへ。
前夜オールドタウン•ユースホステルに集まっているユニークな西洋人たちと話し込み、
多少寝るのが遅くなった。
5日間滞在したカシュガルのユースホステルではヨーロッパからバイクや自転車で中央アジアを横断して中国にやってきた西洋人が多く、
一緒にキルギスタンに向かうフランス人カップルを含めて有意義な時間を過ごせた。
残念ながらカシュガル3日目に屋台で食べた羊飯があたったらしく、
4日目、5日目は激しい下痢に襲われ、カシュガルメインの日曜マーケットを訪れる気力はなかった。


オールドタウン•ユースホステル目の前に9時前から停まっているタクシーに乗り込みウチャへ。
英語、ロシア語を話せるイケメンのフランス人、
東京近くで二ヶ月間ホームステイしながらホテルで働いたことがある彼女。
カップルとはいろんな話で盛り上がった。
2時間ちょっとでゴーストタウンのようなウチャに到着し、
タクシーを降りて無意味に長いイミグレまでひたすら歩く。
不思議なことに他の旅行者や中国人はほとんどいなく、
前方に1人キルギスタン人と思われる若者が歩いているだけ。
同行のフランス人がロシア語を話せるため、キルギスタン人の若者と話し、
イミグレのあるウチャから100キロ以上離れた本来の国境のIrkeshtam(イルケシュタム)に向かうタクシーをシェアする。
中国側イミグレと実際の国境まで100キロ以上あるのは謎である。

その前に中国側イミグレで出国手続き。
理不尽なほど時間がかかった。
イミグレの建物に入ってから感じのいい女性の係員にパスポートをチェックされ、
しばらく入口近くの席で待てと言われる。
前方では西洋人の年配ツアーグループの人々が時間をかけて出国手続きを行なっているようだった。
年配グループの出国が済んでから自分らも向かおうとすると、
なぜか顔つきの恐い若い男性の係員に止められ、再びパスポートチェック。
これからタクシーをシェアするキルギスタン人若者のパスポートを丹念に眺めてから
なぜか再び入口付近で待てと言われる。
どう見ても誰も出国手続きを待っていないのに。
後からやってきたキルギスタン人のおばさんも待たされている様子。
明らかに中国人の若い男性係員の嫌がらせである。
20分くらい経って男性係員の代わりに最初の感じのいい女性が戻ってくると、
すんなりと前進することができた。

それでも中国イミグレの嫌がらせは続く。
検疫チェックで並ばされ、荷物チェックはX線に通すだけとはいえ、
肝心のセキュリティチェックの機械に電源が入っていなく、
機械が動き始めるまで無意味に待たされることになった。
すでにイミグレの建物に入ってから1時間以上が経過している。
ようやく係員の1人がセキュリティチェックの機械の電源をつけてから何もチェックされずにバックパックとリュックを受け取り、
自分とフランス人カップル、キルギスタン人数人しかいないのに出国手続きのカウンターに等間隔で並ばされる。
出国する外国人よりも中国人係員の方が多いのに手際が悪すぎるイミグレである。
モンゴルに行く際の中国出国は荷物チェックもなく数分だったのに、
出国審査で嫌がらせを受けるのは初めて。
そういえばキルギスタンに向かう中国人は1人も見かけないので両国の仲が悪いのだろうか。

1時間半かけて出国スタンプをもらう。
すでに建物の外で待っていたタクシーに4人で乗り込み、中国とキルギスタンの国境へ。
これまた嫌がらせのようにパスポートの出国スタンプチェックが途中何回かあった。
さらに中国北京時刻13時頃、新疆時刻、キルギスタン時刻11時頃にイルケシュタムの国境にたどりつくと
ランチタイムで国境が閉まっていると言われる。
しかも国境があくのは2時間後と再び理不尽な話しだった。
もし会話相手のフランス人カップルがいなければウンザリしていただろう。

カシュガルのユースホステルを出発してから6時間後の北京時刻15時にやっと国境を越え、
またまたパスポートの出国スタンプチェックを終えてからキルギスタン側へ移動。
イルケシュタムまでのタクシーを辺鄙な場所で降りる。


中国側イミグレで見かけた西洋人ツアーグループをランチタイムに追い越し、
自分と若いキルギスタン人、フランス人カップルが先導してキルギスタンのイミグレへ。
先の中国出国と裏腹にキルギスタン入国はあまりにも簡単。
パスポートに入国スタンプを押され、「キルギスタンにようこそ」と英語でウェルカムされる。
形だけの手荷物X線チェックもなく、3分後にはキルギスタンのイミグレを発つ軽トラックの荷台に載っていた。

キルギスタンはなんて楽なんだろうと思っていた矢先、
軽トラックを降りてからのキルギスタン最初の滞在場所となるサリータシュまでの乗り合いバンの交渉が難しかった。
中国側国境まで同行してくれたキルギスタン人の若者は一気にオシュまで行くのでお別れ。
フランス人カップルと一緒に交渉するもサリータシュまでのバンは4000ソム(8000円)からまったく下がらず。
3で割ると1人1333ソムと半端なので1300ソム(2600円)×3→3900ソムでお願いしても無理。
もちろん人数が増えれば一人当たり安くなるけれども他の人はまったく現れず。
思い返せばたとえカシュガル〜オシュの国際バスが故障していなくても、
乗客が少なすぎて運行していなかったかもしれない。
結局1人1333ソムで諦めてサリータシュに行くことにした。
他に交通手段がないという弱みを握られているので諦めるしかない。

ようやく乗り込んだバンはなぜか途中で停まり、
またまたどういうわけか後からオシュに向かうキルギスタン人の若者ともう1人のキルギスタン人を乗せた別のバンが現れ、
それに乗り換えさせられるという状況になり、
最初から最後まで理不尽で謎だらけの中国〜キルギスタンの国境越えとなった。
それでもサリータシュから見える7000m級の山々の絶景に癒される移動となった。


オシュには2泊だけ滞在し、中央アジア旅行で一番の難関であるビザ取得手続きをビシュケクで行なう。






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2015年7月20日月曜日

新疆ウイグル自治区、タクラマカン砂漠縦断(2015年6月30日)

シルクロードの旅が続く。
新疆ウイグル自治区の中心都市ウルムチからホータンへ。
ホータンの町よりもタクラマカン砂漠縦断ハイウェイを走るバスが目的。
二週間前にモンゴルでゴビ砂漠を満喫した後でもシルクロードのタクラマカン砂漠に憧れている。

ウルムチの中心から離れたwhite birchesユースホステルに2泊滞在。
西安から列車2連泊の疲労をとるには固すぎるドミトリーのベッドだったが、
新疆ウイグル自治区を旅行中の中国人の若者や南アフリカ人と交流できて充実していた。


これまでの中国と違ってエキゾチックなウイグル族地区も歩き回る。
もともとウイグル族が住む町なのに漢民族に居住区を狭められているのは皮肉なものだが…。
新疆ウイグル自治区の中心都市とはいえ漢民族が7割を占めるウルムチは一見普通の中国の都会のようだけれども、
二道橋市場周辺、解放南路にかけては完全にウイグル族の世界。
もはや中国というよりかつて訪れたイランやパキスタンの雑多な雰囲気に近い。
道ゆく人のほとんどが彫りの深い顔つきのウイグル族で、
男性はイスラム帽子を被っていたり、女性は頭にスカーフを巻いている。
ウイグル族以外にもタジク人、カザフ人、ウズベク人も混じっているらしい。
いつのまにか中国から中央アジアの街に彷徨い込んでしまったようだ。




二道橋市場では観光客向けの土産や絨毯、ナツメヤシを売っており、
屋内市場はまさに以前イランやシリアで歩き回ったバザール。




尚、市場の外にはいかにも中央アジアにありそうなミナレットが立っている。
ウズベキスタンのブハラにあるミナレットのレプリカらしい。


ウイグル族一色の解放南路周辺の光景に圧倒される。
たまに見かける漢民族が外国人のように映るから不思議である。
文字表記は漢字、アラビア文字を使ったウイグル語の2カ国語。



調べたところによると、漢民族とウイグル族は顔つきも言葉も異なれば、
住む地区、生活スタイル、食事や物流も異なるらしい。
また新疆時刻という中国標準の北京時刻と2時間の時差で生活していたりと、
中国内にありながら完全に別の国のように感じてしまう。
いや、正確にはもともとウイグル族が住む新疆を中国が領土とし、
「民族統一」などと皮肉っぽいスローガンを掲げ、ウイグル族の世界に漢民族を次々と送り込み、
漢民族しか住めないような典型的な高層マンションを建設しているのが現状だろう。
もちろん高層マンション建設のためにかつてのウイグル族の家屋や商業地区は無造作に取り壊されている。
年々新疆ウイグル自治区に寄生していく漢民族はウイグル族の人口を追い越そうとし、
ウイグル族への弾圧も強まっているそうだ。
でなければ、怒りが溜まったウイグル族によるテロや襲撃事件が起こるわけがない。

実際にウルムチにたどり着き、ウイグル族が集まる食堂に入って気がついたのだが、
現在はラマダン、断食月だそうだ。
ここまでイスラム世界が徹底されているのにウルムチのモスクからのアザーンが聞こえてこない。
中東諸国、マレーシアやインドネシアでも当たり前にようの1日何度が街中に響き渡るモスクのスピーカーからのエキゾチックなアザーンが流れていないのは奇妙だ。
これも中国政府による宗教規制かと懐疑的になってしまう。




ウルムチから夜行バスでホータンに移動する。
ウイグル族地区にある南部バスステーションはwhite birchesユースホステルから離れているものの、
ユースホステルを出てすぐ見えるBRT乗り場からBRT3で南部バスステーション前の三屯碑までダイレクトに行ける。
ちなみに1元で乗れるBRTは自動車とは別のレーンを利用する市バスなので使い勝手がいい。
が、出発当日バックパックを背負ってBRT乗り場のセキュリティチェックを通過する際、
警備員にいちゃもんをつけられて危うくBRTの乗れないところだった。
別の警備員になんとか通されたとはいえ、襲撃事件や爆弾テロが多いウルムチだけあって
セキュリティチェックがこれまでの国にないほど厳重。

2日前に購入した15時発のホータン行きのバスチケットは370元(7400円)と異様に高い。
ウルムチからホータンまで20時間以上かかるのはもちろん、
タクラマカン砂漠を貫通するので特別料金らしい。
早めにバス乗り場に行くと、寝台バスが待っている。


完全に仰向けになれるベトナムや中国でお馴染みのスタイルのバス。
ただ寝返りをうつには狭すぎて寝台というより棺桶というべきかもしれない。


15時過ぎにウイグル族がほとんど、漢民族数人、外国人自分一人のバスが出発。
南部バスステーションを出るとすぐにウルムチ郊外となり、
やがて西安からの列車からも飽きるほど見た風力発電タービンが荒野に並ぶ。
規則正しく並ぶタービンの数は凄まじく、生み出す電力も強大なのだろう。


棺桶バスではひたすら睡眠。
ウルムチを出てすぐにタクラマカン砂漠に突入するわけではなく、
険しい岩山が道路を挟んでいる。
土煙を上げながら流れる濁流があり、
西安に続きウルムチでも雨が降っていたせいかもしれない。
雨模様とはいえまだ明るい19時頃に夕食タイム。



中華食堂と違い、紙のメニューがないウイグル食堂において
よく分からないまま注文して中国各地のイスラム食堂やウルムチで馴れ親しんだラグメンが出てくる。
中華麺がシルクロードを通ってイタリアに渡りパスタになったとう説があるが、
ラーメンからスパゲティのナポリタンへの進化途中のようなラグメン。
麺は手打ちのラーメンだが味付けはナポリタンで美味しい。


食後は棺桶バスで再び眠りに陥る。
2日前の34時間の硬座と違い、寝台では足を伸ばして熟睡できるのがありがたい。
寝たばかりだからか奇妙な夢のような現実のような夢ばかりを見る夜だった。

朝目覚めるとすでに砂漠の中。
砂丘がなかなか現れないゴビ砂漠のような荒野だろうという予想に反し、完全なる砂の砂漠。
バスはタクラマカン砂漠のど真ん中を貫通するハイウェイを走っている。



乾燥植物が生えるハイウェイ沿いを離れると、どこまでも丘陵のある砂の砂漠が広がっている。
ひたすら棺桶バスから砂漠を見るだけで満足出来るバス旅となった。

25時間後の翌日15時にホータンに到着。
シルクロードのタクラマカン砂漠の街というイメージと裏腹に中国らしい町。
とはいえ、圧倒的にウイグル族が多い。
中国では日本人に見えない自分でもアウェーに感じる。

ホータンでは外国人が集まるホステルや安宿はなさそうで、
バスステーションを降りてすぐ見える交通ホテルに泊まる。
160元と高いものの1泊140元(2800円)にまけてもらい2泊する。
バンコクから北京に飛んで以来初めてのプライベートルーム。
Wi-Fiの電波が弱すぎてネットがほとんど使えないのが難だけれども、
まともなホテルに最後に泊まったのはいつだろうか。
ミャンマーやタイ、マレーシアと遡ってもない気がする。
むろん料金もアジアでは一番高いが。
部屋からバスステーションが見え、朝早いバスでも心配なさそう。



ホータンはウイグル族が人口の8割をしめているそうで、
中東やパキスタンに近い雰囲気が異国情緒をかき立てる。
バザールを物色しているとイランやトルコを歩いている気分になる。
テヘランやイスタンブールで見かけた絨毯屋がホータンにもある。



民族衣装を着た子供達は可愛らしく、なかなか写真を撮らせてくれない漢民族と違う。



ラマダン中のホータンに昼食をとれそうなウイグル食堂はなく、
ちょっとした中華街のように漢民族の店や中か食堂が並ぶ一角でホイコーロを食べた。
漢民族が2割に満たないホータンだからか、数日ぶりに食べる普通の中華飯は29元(580円)と高かった。


ただタクラマカン砂漠を超えた辺鄙なホータンでも漢民族の流入が進んでいるようで、
ウイグル族の古い居住区を取り壊して無味乾燥な高層マンションの建設が進んでいた。
これから何年も経てば漢民族とウイグル族の割合が変わってしまうのだろうか。



今回の世界周遊において最後の中国の町としてカシュガルを訪れる。
カシュガルにて中国、東アジアの旅が完全に終了し、中央アジアへと突入する。
見た目も限りなく中東に近いカシュガルはパキスタン、キルギスタン、
タジキスタンに近い中国で最西端の町。
10年前のユーラシア大陸横断時に訪れたイランやパキスタンを彷彿させる世界だった。